■□■□■□    フォトダマ通信 Vol.53「仲松弥秀先生を偲ぶ」の巻      ■□■□■□

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2006.2.13 記

1月9日、西ノ宮のダイエー駐車場にフォトダマ号を停め、メールマガジンの原稿を書いていた。
その時、沖縄の旧友からメールが届いた。それは、大学時代の恩師仲松弥秀先生の訃報を知らせ
るものだった…。

仲松先生とは、ここ3年近くお会いしてなかった。2年前、沖縄石巡礼の途上、那覇市民ギャラ
リーで展覧会をした時、仲松先生にお会いできなかった。その時、体調が思わしくないのかと
案じていた。
仲松先生と最後にお会いしたのは、約3年前になる。恩師の島袋伸三先生が定年を迎え退官記念
の最終講義の時だった。その夜、日航グランドキャッスルのパーティー会場でのご挨拶が印象
に残る。

1980年、琉球大学に入学した年、初めて仲松先生とお会いした。その頃、琉大キャンパスは今の
首里城の場所にあり、私は、今の県立芸術大の場所にあった海邦寮に住んでいた。
地理学専攻に入学したものの、共通一次試験の社会は倫社・政経を選び、地理学にはそれほど興
味を持てないでいた。
そんな中、ある指標を指し示してくれたのが仲松先生の授業だった。仲松先生は、すでに琉大を
退官されていたが、講義を持たれていた。先生の講義は、とても面白く、興味深いものがあった。
毅然とした態度で、時にはユーモアを交えたお話しに魅力を感じ、フィールドワークを重ねられ
た体験には説得力があった。「地理学は歩かなければ、わからない。」というのが先生の口癖だ
った。

その後、回り道をしながら六年の沖縄生活に終止符を打ち、私は上京し写真の道を志すようにな
る。そして、しだいに聖なる場所をテーマに撮影をするようになった。日本や海外の聖なる場所
を巡れば巡る程、原体験としての沖縄が気になった。
卒業後、しばらくして毎年のように沖縄を訪ねるようになり、その頃から、仲松先生と親しくさ
せて頂いた。先生とお会いするのは決まって首里石嶺の喫茶店で、コーヒーを飲みながらお話を
伺った。時には御嶽を案内していただきながら、先生の気骨な精神と情熱に刺激を頂いていた。

忘れられないエピソードがある。1996年、私は宗教哲学者・鎌田東二さんからお話を頂き伊勢・
猿田彦神社のご遷座祭に向けての様々なプロジェクトに参加させてもらうことになった。1997年
の秋、ご遷座祭に先立って猿田彦大神ゆかりの地をことほぎながら巡る巡行祭(沖縄〜霧島〜高
千穂〜福岡〜出雲〜伊勢)にビデオの記録係で同行させてもらった。伊勢から沖縄に入り、本島
南部の知念村にあるホテルサンライズのロビーで偶然、仲松先生をお見かけした。先生は仲間の
方々と、巡行隊が斎場御嶽(セイファ・ウタキ)に来る事を知り、先に来て待っておられのだ。
その時の再会ほど、嬉しいものは無かった。また、ちょうど沖縄研究をされている精神科医の加
藤清先生と、仲間の方々もおられ、巡行隊のメンバーと合流して斎場御嶽へ向かった。

十数人もの猿田彦大神巡行隊の面々は、斎場御嶽で厳かに言霊・音霊・舞いを奉納し、その後、
キュウノハナに上り久高島を揺拝した。
昼食の席で、仲松先生は、その斎場御嶽での猿田彦大神巡行隊の奉納について、「まるで古代の
祭りが、現代に甦ったようだ」と感動しながらお話されたことを覚えている。

また、四年程前、私は父と二人で沖縄を旅した。その時、仲松先生はとても喜んで下さり、わざ
わざ中城城址や、セイファー御嶽、ミントングスクなどを案内して下さった。仲松先生は、父親
より20歳以上もご高齢にもかかわらず、父よりも足が早く、案内して下さったことが印象に残る。

かつて、本島南部の御嶽を案内して頂いている時、先生はこう話された。「須田さん、あんたは
フリムンだね。賢い人は、お金儲けのことばかり考えている。そんな人ばかりでは、世の中はお
かしくなる。本当に気が振れたものでなければ、世の中は変えられないよ。須田さん、あんたは
おおいにフリムンになりなさい!」
私は尋ねた。「先生もフリムンですか?」
「私は、ウフ・フリムンだよ!」そう言って高らかに笑っておられた。
今でも、その時の先生の優しいなまなざしを、はっきりと思い浮かべることができる。

                日本石巡礼の途上、亀岡にて、満月にて
                                すだぐんじ 拝

※フリムンは沖縄方言で、馬鹿者・阿呆者のような意味。ウフ・フリムンは大馬鹿者。


◎沖縄タイムス

2006年2月9日(木) 朝刊 27面 仲松弥秀氏が死去/村落研究の第一人者 沖縄の民俗地理
学の草分けで、独自の村落理論などを展開した元琉球大学教授仲松弥秀(なかまつ・やしゅう)氏
が八日午前四時二十七分、沖縄市の中頭病院で肺転移性腫瘍のために死去した。九十七歳。恩納村
南恩納出身。……。 一九六〇年代にグスクが按司の居城であるという従来の解釈に対し、聖域であ
るとしグスク論争に火を付けた。奄美から先島まで琉球弧の村落を丹念にフィールドワーク。御嶽
の神と村人の関係は、祖霊神とその後裔の血縁関係であり、御嶽の神が村人を守る形で村落が形成
されているとする「オソイ(愛護)とクサティ(腰当)」の理論を展開。その後の村落研究やグス
ク研究に大きな影響を与えた。 三〇年に師範学校専攻科を修了。県立第二中学校教諭などを経て四
二年、朝鮮の師範学校に転勤し、終戦を迎えた。四五年に日本へ引き揚げ、五九年に沖縄に戻り
、琉球大学助教授、六三年教授、七五年に退官した。 村落研究をまとめた「神と村」で七五年に第
三回伊波普猷賞受賞。ほかに「古層の村」などの著作がある。二〇〇二年地域文化功労者表彰(文
部科学大臣表彰)、〇三年県功労者表彰(文化部門)。 町田宗博琉大教授(集落地理学)は「偉大
なフィールドワーカーで、沖縄の民俗に空間的な視点を導入した」と振り返った。また「歴史、民
俗、人類学、考古学などの学問分野にも刺激を与えた。“仲松ファン”がたくさんいた」とその人
柄をしのんだ。
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