■□  フォトダマ通信Vol.13 「奄美との出会い」の巻   □■

        
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…加計呂麻島の於斎(オサイ)の浜で波の音に耳を傾けていると、どこからか島唄
の声が聞こえてきた。何とも哀しい響きか。裏声を使う奄美の島唄は、何とも哀愁
を漂わせるものがある。どこかお経を聞いているようでもある。そうそれは、まさ
に言霊そのものだ。いつしか月は雲に隠れ、浅い闇がおとずれようとしていた…。


沖縄の本部港から与論島、沖永良部島、徳之島、奄美大島と奄美群島を北上した。
奄美は初めての土地であった。沖縄に住んでいた頃、奄美は実に遠い存在だった…。


「与論島で石を投げると観光客に当たる!」そう云われていたのは、1980年代の初
頭だったと思う。1983年、パロディー国家ヨロンPANA URU王国が建国された。パナ
ウルとは、パナ=花、ウル=珊瑚の事で当時、南海の楽園をキャチフレーズに年間
15万人の観光客を引き付けていた。


しかし、与論島に入り島を回ると、かつての賑わいは失ったように見えた。廃墟と
化したホテル、リゾート施設が目立った。昔の名残か、ビーチの入り口には行き届
いた公共トイレがあり、車中泊者には実に有り難い。


与論島に到着するや、さっそく図書館に行き与論町の史蹟資料や民話などを調べた。
翌日、町役場の教育委員会を訪ねる。初めての土地に入ると、そこの教育委員会に
挨拶に出掛け、石情報を聞くことにしている。反応は二つ、「石ですか…」と興味
を示すか示さないかのどちらかだ。与論町の教育委員会の若い青年K氏は、「ちょ
っと見つけにくい場所にあるのでご案内しますよ!」と言ってくれた。有り難いこ
とに役所の車に同乗させて頂くことになった。


「昔は船に乗り切れないほどの人達がやってきたんですよ。ヒッピーと呼ばれる人
々も大勢いましてね、彼らはコンテナの中にギターやお酒を持ち込んでやってきた
んです。かつては民宿とホテルを合わせて100件以上あったんですが、いまでは30
件位に減りましたね。」とK氏は言った。


島立ての神ゆかりの地赤碕御願、与論島発祥の地アマンジョウ(井戸)、そしてハ
ミゴーを案内して頂く。ハミゴーは与論島の南岸にある切り立った奇石、怪岩の場
所だ。崖には岩窟墓や風葬跡があり、ある処には、何体もの頭蓋骨や体の骨が積ま
れていた。ここは、風土病にかかった人達が、ここに来て、死を待った場所だった
という。


与論島で最も印象的だったのはハミゴーの海食洞窟「中棚岩穴(ナカダナイヨー)」
だった。岩窟墓下から道無き道を下りてゆくと、大人一人がやっと通れる程の人工
的な穴が空いていた。ほぼ垂直状の穴を2?程下り、横穴を3メートル程這って行くと
洞窟の中に辿り着く。洞窟の前面は海が広がっていて、5メートル位の断崖になって
いて海側から洞窟に入ることはできず、ちょっとした秘密基地のような光景だ。
広さは畳20畳くらいあり、岩場は壇上になっていて座るのに調度よい。


その昔、日華事変前のハミゴーは、旧正月五日から三日間、全島の若者達が一大遊
興を展開したパラダイスだった。独身の男女が三線、太鼓を持ち寄り唄と踊りに酔
い痴れ、あたかも夢の竜宮城だったのだ。戦時中から、風紀が乱れるといって禁止
されたという。


かつて若者達は、生涯の伴侶を唄の掛け合いと踊りで探し求めたのだ。背後の崖上
からは先祖の靈が、やさしく彼らを見守っていたことだろう。
与論島の最終日、今平神社を参拝し、近くの太陽石と呼ばれる磐座を拝し島を後に
した。


沖縄の琉大時代、海邦寮同室に沖永良部島出身者がいた。彼は実に物静かでやさし
い性格だった。
沖永良部に入ってしばらく人々と接するうち、彼の性格とだぶるものがあった。
あるスーパーで買い物をするため車を停めていると、ある青年がフォトダマ号をじ
ぃっと見つめていた。「キャラバンをしているんですか?」と質問され、石を求め
て旅をしていることを告げると、いい写真を撮って行って下さいと、いくつかの場
所を教えてくれた。別れ際に「フォトダマ号とは実に面白いネーミングですね!」
と言ってくれた。


ソフトンに絵を描いてもらってから、フォトダマ号は特に小学生にうけていた。指
を指し笑う童達を見るのは嬉しい。
沖永良部島では、与論島と同じく、珊瑚礁が隆起した島でハブは生息していなかっ
た。ある和泊町教育委員会の方は、「沖永良部はハブがいなかったため、島津藩に
徹底的に琉球文化を破壊され、昔の信仰もほとんど残っていないんですよ」と言っ
ていた。案内していただいた「世之主の墓」は琉球三山時代の北山王の息子の墓で、
今でも沖縄から北山王の末裔の方がお参りに来ているとの事。墓は琉球王府から石
工を呼んで造られたグスク建築であった。その形は沖縄の亀甲墓を思わせるものが
あった。

琴平神社にはカマド石と呼ばれる三つの石が祀られていた。その石は神社を建てる
以前からあったと云われていた。
国頭小学校校庭にある日本一のガジュマルの木や昇竜洞を巡り沖永良部島を後にす
る。


徳之島に入って車ですれ違う度、年配者のドライバーが多いと思った。この島は、
世界一の長寿者、泉重千代翁を生んだ場所だった。徳之島のハブは奄美で最も強い
、同じくらい人間も強いと、沖永良部島の方に聞いていた。


伊藤観光ドームの闘牛場には、老若男女が今か今かと待ちわびている。午前10時開
始とともに、十組みもの取り組みが始まった。牛が闘牛場に入る時、塩が撒かれ、
角を合わせると試合開始となる。あらぶる牛を操る男達は、交替しながら掛け声や
足を踏み気合いを入れる。掛け声は闘牛場に響き、何とも勇ましい。どちらかの牛
が逃げると勝敗が決まる。早い時は一分もかからないが、長い時は三十分以上もか
かった。ある取り組みでは、なかなか角を合わせない、顔を舐めたりしている。し
ばらくすると、交尾をしはじめた。その牛達は、雄と雌だったのだ。会場には笑い
声がもれ「みごとなパフォーマンスを見せてくれました」とアナウンスは濁してい
た。


勝敗が決まると、勝った牛に関係者が集まり太鼓を叩きながら、闘牛場に奇声を揚
げる。幼い子供達を牛に乗せて喜びあう光景は、何とも微笑まし亜ものがある。
徳之島で印象的だったのは、天城町と徳之島町にあるペトログラフ(線刻画)だ。
船や弓などが描かれていて、著名なペトログラフ研究家も訪れていた。ペトログラ
フは奄美群島では、徳之島だけしか存在しない。ある民俗研究家に伺うと、徳之島
町のペトログラフの描かれた石は、かつてノロ(神人)の敷地にあって、豊年祈願
をその石の前で行なっていたと言う。


天城町にある、花崗岩がつらなる景勝地「ムシロ瀬」、海の神を迎えた場所と云わ
れる「犬の門蓋(インノジョウブタ)」を巡り、徳之島を後にする。


奄美大島に入ってから、小説家の鳥飼否宇さんの所にしばらくお世話になった。鳥
飼さんとは随分久しぶりの再会であった。2000年から大島に移住した鳥飼さんは、
小説を書きながら奄美で生物の観察を続けていた。奄美野鳥の会の副会長も務めて
いて、初めて訪ねた時、奄美野鳥の会の人達との飲み会があり、同席させて頂いた。


その後、瀬戸内町で学芸員をしている町さんを紹介して頂いた。町さんとは、初対
面だったが、昨年暮れの宮崎の銀鏡(しろみ)神楽で出会った鹿児島の近藤さんか
ら、奄美に行ったら町さんを訪ねたらといわれていた。その夜、奄美の話で遅くま
で盛り上がった。


翌日、鳥飼さんに湯湾岳近くの人工的な石組らしき場所を案内していただき、その
後、瀬戸内町の西古見に向った。
西古見は三連立神の美しい景観で知られ、かつては鰹漁業で盛んな場所であった。
町さんから聞いた、源氏の末裔実久(さねく)三次郎が投げたと伝えられている石
を見たいと思っていた。ある売店の方に、元区長をされていた老人を紹介してもら
う。


その老人は話好きな方で、村の背後にある子宝を授かると言われる石を案内してく
れた。「実久三次郎が投げた石を見たければ、覚悟をして連絡を下さい。あそこは
ハブがでるんです。」そう言って名刺をくれた。名刺には、一等三角点のある戸倉
山の案内人と書かれていた。帰り掛け、三連立神に向かって泳ぐ鯉のぼりを説明し
てくれた。一番下に鰹のぼり、鯉では無く鰹だった。かつて西古見は鰹漁で賑わっ
ていた名残か、そして普通の鯉登りがあり、一番上には、真っ黄色の鯉のぼりが踊
っていた。それは「きゅらのぼり」と呼ばれる鯉だった。目はあるが鱗は描かれて
いない。全部で七色あって、その日の気分によって決めるといい、これは老人のア
イデアだった。きゅらとは、奄美の方言で「真っすぐな心、美しい心」などを意味
してる。
老人にお礼をいい、鳥飼さんとも別れ、加計呂麻島へと向かった。


加計呂麻島は、石はあまりなかったが、「男はつらいよ」最後のロケ地の看板、デ
イゴやガジュマルの巨木が印象的であった。
二日後、瀬戸内町に戻り、さっそく西古見の老人に電話をかけ、実久三次郎が投げ
たと云われる石の案内をお願いする。老人は、「早い時間に来なさい」と言ってく
れた。


翌日、霧と小雨が降るなか午前10時、西古見に到着。老人は、タオルとヘルメット
に軍手、そして長靴を用意して待っていた。「何かあったらいけないからね」と言
いながら、万全な準備を整え我々は山へと向かった。

山の入り口に来ると老人は、塩を取出し山の神様に対し挨拶をして塩を撒いた。塩
を舐め我々は山に入っていった。
山への道の草は、きれいにに刈られていた。私が石を見にゆくため、老人は前もっ
て草を刈って下さっていたのだ。老人は、登りながら草や木、鳥の名を説明してく
れたり、以前よく猪を獲った事などを話してくれた。「ハブは別名マチムンと言っ
てね、帰りに待っていることがあるんだ」そう言いながら注意深く登っていった。
しだいに緩やかな道になり、しばらくすると、山に突き刺さるような高さ3メート
ルくらいの石が姿を現しはじめた。


「これが実久三次郎が投げたと云われる石です」老人は言った。そういいながら、
石の近くの枝を屶で切りはじめた。「石も喜んでるいますよ、お祝いに乾杯しよう」
と、リュックから缶ジュースを取出し、乾杯をした。それから、しばらく石と向き
合いながら撮影をはじめる。しばらく撮影をしていると、老人は近くの石に向かっ
ておもむろにマジックを取り出した。


「記念に日付けと須田さんの名前を書こう」そう言うやいなや、石にマジックで書
き始めた。咄嗟の出来事で、断る事もできなかった。
老人は、満足そうだった。我々は無事に山を下りる事ができ、山の神様に挨拶をし
た。私は老人にお礼をいい細やかながらポストカードを差し上げた。


いつの日か、マジックで書かれた文字を消しに行かねばと思いつつ、西古見を後に
した。

          2004.5.11  喜界島にて 須田郡司拝



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